岩ぞうスペシャル
Milestone Run -page2-
クルマを進めるにつれて,

 天候は悪い方へと形相を変えていき、雄大な日本海を仰 ぐのを待たずに、ついに空は泣きだす。そして呆気なく雪になった。
 「ここまで来たんだ。何とか青海島まで行って、名物の仙崎蒲鉾だけは手に入れ て帰りたい」志し半ばでくじけてしまいそうな意志を支えるために、自ら目標を立 てる。
 幌はもちろん開け放ったままだ。着ているジャケットの襟を立て、帽子を目深に かぶり直して、上目づかいに水の溜まったアスファルトを睨みつける。貧弱なワイ パー・モーターをいたわるために、度々スイッチへ手を伸ばさなければならない。 路面のギャップに応じて、サスペンションなのかシャシーからなのか、「コクッ」 と音を出しはじめた。
 「トラブル・・・?!」一瞬の不安が脳裏をかすめる。
 同情を誘うように、加納君にそのことをトランシーバーで告げ、県道が萩方面と 長門方面に分かれるドン突き交差点を右折。しばらくは萩へ向かって走るが、いま や完全に逃げ腰になっている意志は無線をつたって加納君へわたり、二台のMGB は迷わず一八〇度方向転換した。
 寒い。そう言えば朝食に口へ入れた薄っぺらいパン以外ここまで何も喰っていな い。長門市へ入り青海島の看板を見つけた。
 「島へ渡れば昼飯にありつける・・・」加納君に午後四時の現時時刻を尋ね、島 での暖かい昼食を思い浮かべて気力をふり絞った。
B_in_the_Bay 日本海の潮風がほのかに香ってくると同時に雪は降りやんだ。しかし依然として 暗雲が垂れこめ、いつまた降りはじめてもおかしくない空模様だ。
 青海島。西日本屈指の優美な海岸をもつ、国が定めた北長門の公園。確かに晴れ ていれば日本海の荒波に削られるリアス海岸は荘厳でもあろう。しかし曇っている 上に一度ならず二度までも風雪にさらされた果ての景観では、優雅とか絶景とかい う類いの言葉は思い出せるはずもなく、ただ空腹を満たすだけのために青海島大橋 へ滑り込んだ。
 さほど広くない、しかし二車線をたもった島内の周遊道路をひた走る。
 たった一箇所の道路工事をこえるとき、MGBのどてっ腹をしこたま打ちつけて しまった。修理したはずの排気管とボディの干渉が再発して「ゴゴゴッ」と音をた てはじめた。もう止まって点検する元気も残っていない。そのまま走り続け、よう やくレストランの駐車場に進入。するとどうだ、人の気配がないホッタテ小屋の窓 から見知らぬオッサンがひょっこり顔を出し「ハイ、四〇〇エン」。
 「えっ、カネいるの?!」なんだなんだ、詐欺にあったみたいだ。見渡せば駐車場 に面した土産屋はすべて閉店。あげくには「遊歩道の入口はあそこです・・・」と 雨でぬかるんだ峠道を指差し、鼻紙にもならないパンフレットを押しつけられる。  次なる関所はレストラン。仙崎漁協が経営する「新鮮な魚介類の・・・」と謳っ た海上レストランである。岸から二十メートルほどの沖にあるレストランに入店す るためには養魚場を通り抜けねばならず、まずここで百五十円を徴収される。べつ に見たくもない養魚場の魚だが、桟橋を歩くのだから海中の魚を見ることもできず、 何のための百五十円なのか、まったく理不尽のおおせだ。
 立派な造作のわりには選択肢の少ないメニュー・ブックから、仕方なく『鯛定食』 を注文。運ばれてきた膳には、硬化した鰤の照焼きと、蛸のような歯応えを強いら れる鯛の切り身らしい物体が、これまたメニュー・ブックに劣らないほど御大層な うつわに盛られてきた。しめて二千二百円。ぼられた。
 こうなっては、ここ青海島でのお目当ては件の蒲鉾しかない。そう決心して再び 橋を渡り、立ち寄った唯一良心的な海産物屋の駐車場に戻ったとき、小さな雨粒が またしてもMGBのボンネットを濡らそうとしていた。
 ここから先は日本海沿いに一九一号線を本州の最西端である西長門へ延長させる ルートだ。それでなくとも冷たい潮風が吹き荒れる海岸線なのに、こんなところで 雨に遭ってはたまったものじゃない。もうこれ以上いじめてくれるな。祈るような 気持ちで、屋根のないMGBの運転席から天を仰いだ。けれども空には無機質な灰 色をした分厚い雨雲が覆い尽くしているだけで、太陽の光や熱をことごとく遮って いるにすぎなかった。
 狭い路地をぬけるとすぐに荒海は姿を見せた。
 想像にたがわず極度に寒い。縦横に乱れる突風にさらわれた海水が、雨に混ざっ て剥きだしの上半身に吹きつける。
 飛ばされないように手で押さえた帽子からは水がしたたって、エアホース・パー カのフードは濡れた雑巾を縫いつけてあるみたいに冷たく、素肌が露出している顔 が痛い。雨は塩分を含んでいるせいか細かい氷の結晶に変わり、まるで砂鉄を浴び せかけられているようで、眩しくはないのにかけているサングラスがなければ、眼 も開けていられない。
 もう滅茶苦茶だ。
 意識が銷沈してしまいそうなのをトランシーバーの声が支える。海沿いのパーキ ング・エリアを見つけ、写真を撮るためにクルマから降りてみるが、ひどく寒いこ とになんら変わりはなく、無意識にくわえていた煙草は手のなかでバラバラになっ てしまっていた。
 つらい。それでも幌を立てようとは、口にはしない。
 依怙地か、MG使いのプライドか、この際そんな理屈はどうでもいい。とにかく 夕暮れまでに当座の目的地『西長門リゾート・ホテル』に転がりこむことが先決だ。  西の方角の雲が動いた。小さく顔を覗かせた青空に天候の回復を期待して、右足 のペダルを深く踏み込んだ。
 どのくらい走ったのだろう。地図の上ではたかだか四十キロにも満たないホテル までの距離が、やけに長く感じる。例によっていつの間にか雨は雪になっていて、 路面はシャーベット状の積雪だ。一九一号線から右折。測道にはいると雪は嵩を増 した。
 半島のさして難しくない道順を間違え、岬の小さな漁港に出てしまった。
 「たぶん、こっちが近道じゃないかな」そういう加納君を説きふせて来た道を逆 進。あろうことか、またしても同じ岬の漁港に辿りつく。異常な寒さと極度の疲労 のせいで、上手く運ばない己の行動に腹が立ってきた。
 加納君に先頭を交替し、やっとの思いでホテルに着いたときにはもうヘトヘトで、 雪と泥にまみれた二台のMGBは「哀れな」としか形容できない風体をさらけてい た。

「コーヒーを一杯飲むあいだ、せめてクルマを雨のかからないところに停めさせ ては貰えませんか・・・」
 いまにもベソを掻きそうな表情だっただろう。そう嘆願されたホテルの黒服を身 に纏った男達は「罷り成らぬ」の一点張りでまるで取りつく島もない。  弱者の 僻みと覚悟はしても、こんな悪天のこんな時間にこのような町外れまできて、それ も名を馳せた有名なホテルで、こうまで無下にされるとは思わなかった。捨て台詞 を吐いて立ち去りたい心境だったが、そぼ降る雨のなかで肩を濡らしながら、トラ ンクに積んだポットのコーヒーを飲む勇気は、情けないことにもう残っていなかっ た。
 味もクソもわからないコーヒーを一流の価格で飲み干して、厭味な親切面の見送 りをうけてホテルを出たころには、雨はもう上がっていたが、あたりは迫りきた暗 やみにとっぷりと包まれてしまっていた。
 MGBを停めた駐車場の薄暗い街灯の下でロードマップを開いて、分かりきって いる現在地を再確認する。どこからどう見たって自宅のある岩国市からは、対角線 上の最も遠い位地にいるんだ。認識を改めたところで別の手段があるわけではなく、 辛うじて相談できることといえば、豪雪の予想される県中央部を避けて遠回りにな っても下関市へ南下するルートをとることだけだった。
 かたくなに、これまで立てなかったMGBの幌を、どちらからともなく用意する。  プライド、意地、流儀、拘り、もうそんなモノはどうでもいい・・・。肉体と神 経が同時に限界域を越えてしまいそうな危機感が、滅多なことでは使わない幌を立 てさせる。その滅多なことが、いま起きようとしているのだ。
 幌は、低温のせいか硬く縮みあがっていて、とても一人の力では張れそうもなく、 加納君に手伝って貰ってなんとか装着。これによって外気から隔離された車内は、 狭まった視野を別にすれば快適そのもので、鎧と化した重装備のジャケットやスカ ーフを脱ぎはらい、現代の自動車に乗る常識的で身軽なスタイルへと解放されて運 転席に収まる。
 とても暖かい。天国にいるみたいだ。これで家まで無事に帰り着くことができる。 柔らかくて優しい、包みこむような何かに救われたような気がした。そんな和やか さが、幌を立てた車内には漂っていた。
 一〇〇〇回転強で静かにアイドリングを続けるエンジンも混合気の塩梅がいいこ とを示し、水温、油圧、電流、いずれも適正である、とインストルメント・パネル の小さなゲージが教えてくれている。
 仲良く幌屋根を背負ったMGBは辺境のホテルをあとにする。
 午後六時三十分。高台の駐車場から目の届くホテルのダイニングでは、温かい夕 餉の支度がはじまっているのが見渡せた。
 一九一号線に戻って、目指すは下関の街だ。トランシーバーで交信する声にはリ ラックスした笑い声がまじり、精神的な安らぎをとり戻したことを証している。
 しかしこのとき、わずか数分後に襲いかかる最大級の不安と恐怖があろうとはな にひとつ知る術はなかった。