岩ぞうスペシャル
  Milestone Run -page3-
 
南下ルートを辿って間もなく、
   南下ルートを辿って間もなく、こぢんまりしたガソリン・スタンドに入った、そ のときだった。
 「バチバチバチバチ・・・!」
 燃料チャージを終えるや否や、もの凄い轟音をたててMGBの紺色のボディで白 い粒が飛び散った。店内で用を足して出てきた直後のできごとに、瞬間なにがどう なっているのか把握できなくて、咄嗟に声になった。
 「なんだ、なんだ、コレ。何が降ってきたんだ?!」
 「ひょう?、アラレ?、なに?」思わず駆けよった加納君のクルマの窓から、彼 もまた事態がつかめない様子で口走った。
snow1 加納君の推察は当たっていた。凪いでいた夜空は急転直下、大粒の雹と霰をとり 混ぜて数百メートルの上空から地上へと叩きつけたのだ、なんの前触れもなく。
 路上へ出るために点けていた右折のウィンカーをひとまずおさめる。スタンドの 照明に照らされた黄色のセンターラインがみるみるうちに、本当に見ている目の前 で真っ白く埋め尽くされていった。わずか五分足らずのできごとだった。
 どうする。どうしようもない。怖々繋いだクラッチを合図に、MGBはそろりと 新雪の上に踏み出した。車外の状況を観察しようにも、外気温度の変化に敏感に反 応して車内の窓は一斉に曇ってなにも見えない。ウィンドウ・デフロスターを持た ないフロント・ガラスの内側を懸命に拭く。その表側は、心細いワイパーが張りつ いた強固な雪の結晶を必死に払いのけている。そうして確保した、たかだか二十セ ンチ四方の視界から覗きみえるのは、アルミ合金のボンネットの上で弾け踊る。や はり雪の大粒だけだ。
 前方を行く加納君の弱々しく光る赤いテイル・ランプが吹雪に紛れて小刻みに震 えて見える。けれども視線はそれを手繰り寄せるようにじっと追い続けていた。そ れはあたかも、たった一本の細い糸で繋がった、己の生命線であるかのごとく貴重 なものにさえ思えた。
 MGBは極めて硬いスプリングを装着している。もちろんボディのローリングを 抑えるために大型のスタビライザーもだ。これらはタイヤが路面としっかりコンタ クトしているときなら素晴らしい旋回性能を発揮するが、氷上や雪上においては、 車体の慣性をサスペンション・ストロークで吸収することができず、恐ろしく滑り やすくなる。つまり不用意なアクセル・ワークやブレーキング、急激な舵取りには まったく応答せず、そのまま直進して突き刺さる。ついこのあいだヒルクライムで ベストラップを狙ったクルマが、どうして安楽に雪道を走れようか。
 両手両足に全神経を集中させて、闇に目を凝らす。
 『下関、四十六キロ』
 ヘッド・ライトの明りに道路標示の文字が浮かび上がった。思っていたほど先へ 進んでいなかったことに、がっかり気を落とし、時速四十キロから五十キロを上下 するスピード・メータの針に目配せをしながら、街灯も疎らな一九一号線をひた走 る。右手に見えるはずの響灘は漆黒の闇に沈んで、そこが海なのか山なのかさえも 見分けがつかない。時おり怒り狂ったように勢いを増す霰が、張りつめた幌を強く 叩いて、大きく響く音が余計にも心に恐怖を植えつける。
 『断末魔だ。一体全体いつまでこの状態が続くんだ。これは何かの試練か、天に 慈悲はないのか・・・』孤独な車内で心が叫んでいた。

フロントガラスにこびりついた雪は、
  ワイパーの根元で山積みになって盛り上が っている。案の定、貧弱なワイパーは奇妙な動きと音を見せ始めた。
 『冗談じゃない、いまコレが壊れたらどういうことになるんだ・・・』よぎる不 安をいちいち自問自答する。だが、その不安から免れる名案は、なにも浮かんでく ることはない。
 『ここへクルマを置いて電車に乗れば・・・、いやここまで一緒に走ってきたん だ、何としてもコイツをつれて生還せねば・・・』もはやMGBというクルマに人 格を認めて接していることに気付く。なにせ生死の鍵はコイツが握っているのだ。  時間も分からない、場所も知らない。たまにトランシーバーから聞こえてくる加 納君の声が、唯一の頼りだった。
 「・・・気を付けて行きましょう」
 会話の度に、呪文のようにこう繰り返すことで、降りかかる凶変をぬぐい去ろう としていたのかも知れない。積もったばかりの雪の上を行く加納君のMGBの細い 轍を、唯ひたすらなぞるだけが、そのときにできる全てだった。
 衰弱した神経が変化を感じた。
 対向車線をすり抜けるヘッド・ライトが、こころなしか増えたような気がする。  『下関が近づいたか』と、胸のなかで悟った。それに合わせるように雪は降りや み、楽しげな街の明りが加納君の濃いグリーンのMGBを、再び目前に照らしだし た。
 命を得た。無事に切り抜けた。
 狭いMGBの車内が、瞬くうちに安堵の空気で溢れた。
 それにしても永かった。そして苦しかった。緊張の糸で縛っていた悲愴感が解き 放たれ、賑やかな都会の喧噪に紛れて消えた。少しだけ窓を開けて街の匂いをかい でみたら、それがやけに懐かしかった。
 いつもなら雑踏を避けて野山を駆け回って歓びを知るMGBなのに、その雑踏へ 再帰したことで安心を得るとは、無責任なことだが不思議なものだ。信号待ちの交 差点でショーウインドウに映った自分たちの姿に、そう省みた。
snow 「この張りついた雪、写真に撮っておこうよ」前をゆく、今度はテールランプで はなく幌のアクリル・ウインドウ越しの加納君にはなしかける。
 営業中のスーパーマーケットの煌々と光る照明器の下で、二台のMGBは嵐をの り越えてきた渡り鳥のように、艶やかに濡れた濃緑と濃紺の翼を休めた。ひと息つ くと、忘れていた空腹を思い出したのか無性に腹がへってきて、スーパーマーケッ トで手に入れたパンを貪る。たんと用意したポットのコーヒーを、思えば今日初め て飲むんだ。旨い。久しぶりに喉を通り抜けるブラック・コーヒーのほろ苦さが、 かさついた胃袋に染みわたった。
 「さあ、行こうか」
 MGBのスレンダーなウイング・パネルを軽くノックし、加納君とMGBの両方 に声をかけて、夜の二号線へと向かった。

そしてそのときボクは、
  南下ルートを辿って間もなく、整えられた路面の雨水を蹴あげるロードノイズと回転を 保ったエンジンノイズが、単調に連続する車内に身をゆだねて、今朝にはじまった 驚異的な一日を回想していた。
 『なぜ、いまボクはここに、こうしているのだろう・・・』
 寒いとか遠いとか、そんなツーリングはコレまで幾度となく経験してきた。クル マが調子を崩し、騙し々々百数十キロを走ったことだってある。けれども、こんな にも危機や悲愴に打ちひしがれたことはないし、その修羅場をくぐりぬけたことに、 やすらぎを抱いたのも初めてだ。
 言いようによっては、たかがドライブである。
 そもそも車とは二点間を速く安全に移動するための『道具』であったはずだ。そ れは馬車にはじまり、やがて速さを競うようになって、快適性や装飾性に進化の方 向は派生し、現代の自動車が形成されているものだと思う。
 とりたててスポーツ・カーというジャンルのクルマは、時代背景に応じて様々な 価値基準を生みだし、その形を変えてきたのだろう。ボクが苦楽を共にしている一 九六三年製のMGBは典型的な六十年代の英国式スポーツ・カーで、乗り心地もさ ることながらラジオさえ装備していない簡素を極めるつくりなのだ。
 にも拘わらずだ。そんな質素なクルマに息吹を感じ、歓びを期待して、ねぎらい を与えている。
 壊れることだってあるだろう。しかし、それを修理するのはボク自身だ。なぜな ら、ボクはコイツが好きだから、ボクのために、ボク独自の価値観で接することに 意義を見出しているからなのだ。だからボクがコイツに乗っていることを他人様が 見て、格好良かろうと悪かろうと、知ったことではない。第一そんなことを気にす る余裕などありはしない。誰に干渉されることもない、そこにはボクとMGBの永 遠の蜜月以外は存在しないのである。
 だから今日、ボクとは別のMGBワールドを育む加納君が、ボクのMGBの復活 ツーリングに同行してくれたことが、ボクはとても嬉しかった。ボクたちは似たと ころもあるけれど、違うところだって少なくない。互いの世界を尊重し合いながら の道中は、たとえそれが凸凹路であっても、この上なく楽しく幸福をも感じ得る。 それこそが仲間だ。
 加納君とグリーンのMGB、彼らに出逢ってから、かれこれ三年がすぎた。
 沢山のヘッドライトがゆきかう二号線の流れにのって、二台の疲れ果てたオープ ン・カーは旅のエピローグへと駒をすすめた。鬼門、小郡で、本日五度目の雪にあ ったが、もうすでに一喜一憂する感情の持ち合わせがなかった。
 助手席に置いたトランシーバーから、加納君の声がした、そして会話の最後に、 彼はこう言った。
 「・・・でも、来て良かったね」
 図らずもMGBと過ごした小さな大冒険は、地位や名声、金銭的価値といった尺 度では測ることのできない貴い何かをボクに与えてくれた。
 有り難う加納君。有り難うMGB。また、一緒に走ろうよ。
 出発前には思いもよらなかった、大自然との戦いが果てようとしていた。
 ボクは充足感に独りほくそ笑んで、ぴたりと手に馴染んだ木製の細いハンドルを、 しっかり握りなおしたのだった。
 さらなる冒険を夢にみて。

【終わり】

この手記は一九九五年二月一日に実際に敢行したツーリングのお話です。ひねもすに亙って思いもかけない悲惨な悪天候に見舞われましたが、あまりにも感動が大きかったので、文書に記しおきました。

 一九九五年二月一七日

著 者